「かつてないくらい犬のことを考えていた」
 吉田大八監督(映画監督、CMディレクター)

今まで、犬のことをあまり考えないで生きてきた。苦手というほど積極的な気持ちでもなく、ただなんとなく無関心に、視界に入ってはじめて「あ、犬だ」と思い出すくらいで、だからこの映画で取り上げられた、犬と人間をめぐるいろいろな問題についてもほとんど知らなかった。

ところで、最近「共感」とか「感情移入」とか、言葉としてやや食傷気味だ。というか、他人の感情の中に自分と共通のボキャブラリーを見つけないと安心できない人がいくらなんでも多すぎる。自分のこともよくわからないので、他人(や、物語の中の人格)にそれを求めて得られないのは基本当たり前と早めに諦めたほうがいいと思う。問題も答えも、結局自分の中にしかない。

そしてこの映画を観ている間、かつてないくらい犬のことを考えていた。というより犬と自分のこと。犬と暮らす自分。犬と公園を散歩する自分。犬に餌をやる自分。犬と寝る自分。犬の病気を心配する自分。犬の死を看取る自分。こんなに犬が(想像の中でも)自分ごとになるとは、正直驚きだった。

そうなったのは、ひとつには間違いなく小林聡美の眼差しのせいだ。もちろん、厳しい状況のもと犬を一匹でも多く生かそうとする人たちの献身も、飼い主たちが犬を思う気持ちも、事実としての重みをもって迫ってくる。ただ、それをより強くみつめるために、山田監督は小林聡美演じる久野というディレクターに自分自身を託すという賭けに出た。

久野=小林聡美は、わかりやすい共感のフックで観客を釣るのではなく、感情の露出をギリギリまで抑えて、祈るようなストイックさでひたすら犬と人間をめぐる状況をみつめ続ける。言うまでもないことだが、観客もまた、みつめ続けることしかできない。結果、そこに映っているのがまぎれもなく自分と同じ生きものであり、だから映画の中で起こっていることが自分の問題に他ならないということに気づかされる。これは、普通のドキュメンタリーでも劇映画でもうまくいかなかったかもしれない。「久野です」と自己紹介する小林聡美に、演技経験などない人たちが自然に挨拶を返す奇跡のようなその瞬間、映画も演技も登場人物も消えて、生きものをみつめる生きものの眼差しだけが残るのだから。